自分がどう見られているかが読めない人たち

電車の中で化粧をする人が話題になったのはもう古い話。化粧をしないわたしには,実際のところはわからないが,いくら知らない人とはいえ,人前で化粧をするということは,なかなか大胆な行為のように思った。

もっと驚くことに,最近よく出会うようになった。それは食事。コンビニの前,それもゴミ箱の前で,弁当やカップ麺,菓子パンなどを食べている人がいる。地下鉄のホームにあるいすに座って,弁当などを食べている人もいる。地下鉄やバスの中で,パンやお菓子をつまんでいるものもいる。駅のトイレの前に座り込んで,弁当を広げている若者たちには,思わず目をそらしてしまった。スーツ姿で,手に持った食べ物をかじりながら,歩いている人とは,かかわりたくないと思った。

彼らは,子どものころ,どんな教育を受けたのだろうか。このような行儀の悪いことは,きっと注意されたのではないか。恥ずかしいことだと感じる気持ちが,そこから育ってこなかったのか。また,衛生状態のよくなった環境で育った人たちは,何がきれいで,何がきれいでないのか,区別ができなくなっているのだろうか。

午後10時ごろに,会社帰りの地下鉄の駅でのこと。ホームで列車を待っているとき,何やら若い女性の大きな声が聞こえる。横を見ると,コンビニのパスタを食べながら,携帯電話で誰かと話をしている。もうすでに自宅にいるのと変わらないくらいにリラックスしている。それに品のない言葉遣い。わたしには信じられない光景だった。

自分のどのように見られているかは,人間の高度な能力のように思う。自分の視点ではなく,自分から離れた目線で,自分自身をながめる想像力。池谷裕二の本によれば,幽体離脱の能力だ。最近の破廉恥な行動を目にすると,このような能力が育っていないか,欠落しているのではないかと思う。