子として,親として

親として,子に意見を言う。親だから偉そうなことを言う。自分の子ども時代は,もうすんだことだから,いいように語ることができる。子にはどのように聞こえるのか。
子が委縮しないかと心配になることもある。言い過ぎず,言わなさ過ぎず。感情的にならず,効果が上がる程度に。

体調が悪かった。やりたいこともいろいろあったが,きょうは息子と一緒に数学の問題集を買いに出かけた。わたしによく質問に来た娘は,そのうちに質問をしなくなった。息子もあまり質問に来ない。数学や理科の問題なら,多少は教えることもできる。でも,あまり出しゃばりすぎない方がよいとも思う。加減がむずかしい。

息子はわたしの話を聞いて,どう思っているのだろうか。わたしに対して,どのように考えているのだろうか。

わたしの高校生時代,家族はわたしの学習内容を理解できなかったと思う。自分の息子の実力も,実際にはよくわかっていなかったと思う。小さいころ,からだが弱かったわたしの健康を,何より第一に考えていてくれた。
父は,「勉強ばかりしていると,ろくなものにならん」とよく言っていた。本心かどうかわからないが,わたしの勉強のじゃまをすることもあった。そんな環境で育っていた。

わたしは,早く自立したいと思う反面,自分で生活していくことへの不安も小さくなかった。そんな不安を感じていたわたしには,わたしたちを養っている父は偉大にうつる。さまざまな場面で,わたしは父に反発していた。でも,働いて家族をささえていることに関しては,屈服するしかなかった。ほんとうに偉大だと思った。

親を20年もやっていると,このような気持ちを忘れている。必死になって生活して忘れてきた。忘れるとともに,強くなってきたのかもしれない。さまざまな不安が,不安でなくなることの積み重ねが成長なのかもしれない。だから,成長とともに,不安だったときの素朴な気持ちを忘れてしまう。

子に意見を言いながら,わたしはいつから,このようなことを言うようになったのだろうかとも感じていた。得たもの,失ったものは何なんだろうかと,頭の片隅で考えていた。わたしの子どもたちも,いつの日か,このように思うときもあるのだろうか。30年くらいのち,わたしがいない世界で,同じことを感じるのだろうか。