日本語のかたち

谷川俊太郎と舟木淳のトークと朗読を聞きに行った。もともと女房が朗読のボランティアをやっていて,そこからの情報。女房が行くというので,わたしもついて行った。
大学時代は小説も読んだ。ここ10年くらいは,小説はほとんど読んでいない。詩にいたっては,学生時代からほとんど縁がなかった。ミーハーなわたしは,谷川俊太郎という名にひかれ,出かけたわけである。
舟木淳のトークは,わたしには耳障りだった。確かに詩の朗読はうまいのだろう。声の通りもよく,ペースも心地よい。しかしトークはいただけない。声を発している割には,意味をなしていることばが少ない。もっと谷川にしゃべらせて欲しかった。
谷川の朗読はよかった。本人だと言うだけで,かなりひいき目で見ていることもある。ミーハーなのでしかたがない。
詩はわからなかったし,好きではなかった。国語の授業は,感性を試されているようで,どうしても入っていけない。説明されると,そうなんだと思えることもあるが,先生が言うようには感じられない。相当な苦手意識を,そのころからもっていた。
でも,50間近になって,もう少し素直に向き合えるようになっている。自分の感性のまま,接すればよい。そんなふうに思えるようになった。谷川の詩だって,この詩は好きだとか,この詩はちょっと…など,好き勝手に聞いている。「1兆年前」と言われると,「宇宙の始まりよりずっと前なのになあ」とつい思ってしまうのも,わたしの感じ方。
ものの見方やことば選びの新鮮さ,ことばの響きの心地よさ,おもしろさなど,これが詩人の個性・感性なのかと改めて思った。谷川の詩には,身近なものがよく出てくるのも驚きだった。新しい詩には,Google Earthまで登場する。これが詩だったんだと,いまさらながらに思う。
いまも創作活動をしている谷川にとって,このような催しは負担なのではないか。そのように思ってしまうわたしは凡人。彼は精力的にさまざまなものをこなし,いろいろなものを見つめて,創作を続けているのだろう。
帰り道,舟木のトークの悪口を,大きな声で女房にしていたら,女房は困惑顔。歩道にいっぱいの人の中には,舟木ファンがかなりいるはずと。刺されても本望。ダメなものはダメ。舟木のトークは,わたしにとっては耐えられないものだった。
もう二つ,気に入らないことがあった。隣の席の二人連れが,壇上のトークに反応してしゃべり出す。しゃべってないで,続きをしっかり聞きなさい。最後は,携帯の音。開演前に,マナーモードにとアナウンスされているのに,何回か携帯の音が鳴る。自分は大丈夫と思っているのか,まったく気にしていないのか。このような不快感を与える側にならないように,わたし自身ももっと意識をしたい。うっかりミスでも,人を大きく不快にすることもある。