- 作者: 小森陽一
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/07
- メディア: 新書
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「手を貸す」という比喩がある。実際に,手だけを相手に貸すことなどできないので,この表現は比喩である。ただ,そこに無理を言っているという意味もこめられる。また,だまって協力して欲しいという意味もある。「手を貸す」という表現は,それらを含めている。しかし,実際に「手を貸す」というときに,ここまで意識することは少ない。だから,比喩を使うことで,意識させないでこちらの思い通りにすることが可能になる。
相手をある枠組みにはめてしまう「フレーミング」という手法がある。本人が自覚しないまま,本人の経験に特定の意味づけを与えて,ある方向にもっていく。
ナチズムの浸透は,個人の記憶と社会的集合記憶とをうまく結びつけることによって行われた。宗教的な儀式や儀礼,音楽や演劇などの芸術,スポーツなども利用しながら,社会的集団記憶に働きかけ,それによって個人の記憶を組み替えさせる。大衆は自発的にナチズムに参加していく。
実際に経験していないことでも,経験した類似のことに関連させて思い起こしていると,それらが新たな記憶をつくり出してしまう。異なった出来事でも,共通することだけに着目して,同じことのように見せかけることが可能になる。
幾度となく戦争を繰り返しているアメリカ。そのアメリカでも,戦争をはじめるためには議会の決議が必要になる。また,国連憲章でも,武力による威嚇や武力の行使を禁じている。しかし,defencseという名の下であれば,このかぎりではない。アメリカが行っている多くの戦争は,このdefenseという言葉のもとで行われている。
アメリカにおけるWarという語のもつイメージは変わってきた。“War on Drugs”“War on Poverty”“War on AIDS”“War on Cancer”など,命を失うのではなく,命を救うイメージ。それを利用して,“War on Terror”というスローガン。これはうまい。
わたしたちは“テロ警戒中”という文字を,どれだけ目にするか。これらを見ているうちに,テロの恐怖はますます身近に迫ってくる。そのような状況で,何を判断しろというのか。冷静さを失わないようにしなくては。
「快」か「不快」かで選択するのは,言語をもたない0歳児段階。「好き」か「嫌い」か,「おもしろい」か「おもしろくない」か,…というも同様だろう。言語的思考を停止した状態といえる。ここへ持ち込めば,因果関係など関係なく,こちらの思い通りに操作できる。
アンヌ・モレリ「戦争プロパガンダ10の法則」(草思社,2002年)が紹介されていた。なかなか興味深い本だ。恐怖,憎悪,義憤などを吹き込んで愛国心を煽り,若者を戦争に駆り立てる。いつの時代にも起こりうることだ。
アフガニスタンの大統領であるカルザイは,かつてユノカル社の最高経営顧問だった。そのユノカル社は,当時アメリカの石油業界第9位の会社。カスピ海諸国で生産される石油や天然ガスは,アフガニスタンからパキスタンを通って,インド洋につながる。そのパイプラインの権益を獲得したのもユノカル社。このことはほとんど報道されていないという。確かに,聞いたことがなかった。何だか恐ろしい。
敵をつくりあげるとき,「われわれ」という言葉が生まれる。「敵=彼ら」と「味方=われわれ」という構図をつくりあげる。
「なぜ」と考えることは大切だ。それにより思考停止から脱することができる。