「人体 失敗の進化史」

人体 失敗の進化史 (光文社新書)

人体 失敗の進化史 (光文社新書)

動物の形態を調べることから,進化の過程や進化のしくみなどを解明する。著者はそのような研究をしているようだ。動物のからだのつくりに細かく分け入り,それらを比較しながら,その由来や形状の意味を探る。

進化という科学の分野は,大変長い時間をかけたできごとであり,雄大であるがために,かけはなれた世界のことのようにも感じる。しかし,考えてみると,自分たち自身も進化を経ており,またその過程にあると考えれば,本来は大変身近なものでもある。
その進化は,いまの教育では,十分には扱われていない。義務教育では,中学校の発展でわずかに扱う可能性がある程度だ。高校では,進化を学ぶ科目を選択しなければ,それを知る機会はない。アニメやゲームのキャラクタが行う,おそらく変態というのがふさわしい変化を進化とよぶことも,このままでよいのかと思うこともある。宗教上の理由から進化を受け入れないという海外の話も聞くが,日本の状況も問題だと思われる。

進化というのは,偶然の積み重ねのようだ。たまたま有利だったことが,そもそもの成り立ちとはまったく違ったものへと方向転換させる。ちょうど稲妻が,上空を勝手気ままに,その都度方向を変えながら,たまたまそのときに電気が流れやすい方向に進むように,えらからあごができ,あごから内耳がつくられていく。
カルシウムやリン酸は,生物にとって重要な物質である。それらを安定供給するため,からだにため込んだ。でも,その硬さがからだをささえるのに都合がよかった。それが骨に使われていく。浮き袋は,水の中でうまくからだを安定させるために発達した。水の中で,浮き袋の中の気体を出し入れするのは簡単ではないと思う。それを,血液中に溶けている気体の出し入れで行っている。袋状の構造と,血液とのガス交換といえば肺だ。浮き袋が肺の起源であることはよく聞くが,このような説明を受けると合点がいく。
それにしても,水中でからだのバランスをとるために使われていた浮き袋が,地上でガス交換をする器官になるとは。進化とは,そのときに使えたものを,偶然に選択して利用する過程であることに改めて驚く。進化は,見通しということばとは無縁のようだ。

科学の研究が,実利主義,効率主義の方向に,近年大きくカーブしている。そのことに関して,著者の考えに賛同する。もちろん,身近に活用でき,生活の質をよくする科学も大切である。しかし,「役に立つ」ことだけを目的に科学が語られることに,科学に親しみ,科学が好きなものとして,大きな抵抗を感じる。
科学は文化として発展した後に,国や人々の生活を豊かにするものという考えが浸透したのではないか。しかし,日本においては,科学は輸入するものであり,役立つものという明治以来の考えが強いのかもしれない。でも,そのような状況であっても,文化としての科学も育ってきていたのではないか。理論物理や天文学のような基礎科学の分野で,積極的に研究が行われているいまの伝統は,そのような結果だと思う。

20世紀のはじまりとともに研究が行われ続けた量子力学とその進展が,現在のエレクトロニクスやナノテクノロジーをささえている。50年以上前から進められている分子生物学があったからこそ,いま多額の投資の対象になるバイオテクノロジーがある。これらの科学の萌芽は,投機の対象として育て上げられたものではない。そのときどきに人々が知恵を絞り,謎解きし続けた活動の成果なのではないか。科学の分野は,稲妻のような枝分かれを続け,その中の一部が,いまいわれる「役に立つ」ものになっているだけなのではないか。
進化という科学は,進化論から進化学へと脱皮を遂げた。数十年後,その成果の一部が,社会に影響を与えることも,それほど見当はずれな話ではないと思う。だから進化の研究が大切だと短絡的に見るのではなく,科学とはそのようなものだという認識を持つことが大切だとわたしは思う。
文学や絵画・彫刻など,さまざまな文化と同じように,科学をとらえることのできる社会。それを守るためにも,動物園や博物館,科学館の位置づけは重要だ。著者たちの活動に期待したい。

最後に,わたし自身の好みの問題について。著者が語るような文章は,このテーマに興味のないものにも読みやすい。また,この研究に対する著者の情熱のようなものが,そのような文章からにじみ出ている。しかし,わたしとしては,もう少し冷めた文章が好きだ。淡々と書かれたものの方が,対象に対する興味が素直に生まれる。これはわたしのひねくれた性格,楽しいよと言われると,そのように感じられない性格によるものかもしれない。