どうして人をだまそうとするのか

ドアフォンが鳴る。2階の自室から,急いで降りていき,インターフォンで用件を聞く。
訪問者「健康についてご不安な点はありませんでしょうか」
わたし「はぁ!? 何ですか?」
訪問者「心臓とか,骨とか,健康についての不安はありませんでしょうか」
わたし「わかりません! いったいどういう用件でしょうか?」
訪問者「…,東洋医学…」
わたし「結構です。」

ここでわたしはインターフォンを切った。ほんとうはもっと言いたかったが,早く自室に戻り,仕事の続きをしたかったから,これで終わりにした。

それにしても,何ということだ。健康に不安を持たない人はまれだろう。また,オールマイティな治療法や健康法はないとわたしは考える。人をだますような手口は嫌いであるし,本来ならとことん叩いておきたい。

でも,訪ねてきた人は,たぶん悪気はないのだろう。そのように教えられてきているだけと思う。おそらく宗教もどきで,信者を使った「悪徳商法」なのだろう。宗教の勧誘であっても「悪徳商法」に違いはない。結局は集金目的なのだから。

それにしても,どうしてこのような商法がはびこるのか。おかしな話にだまされない教育は,義務教育で必須にすべきなのだが,なかなか思い切ったことはできない。政治そのものにも「だまし」が潜んでおり,だまされてくれないとうまくいかないところもあるからか。

不景気だからと言って,どこから湧いて出てきたかわからない金をばらまく。このような景気対策は,かつてのバブルと何が違うのか。環境が大事といいながら,新しい商品を買わせる。それを国も後押しして,エコ・ポイント(エコノミック・ポイント!?)などという訳のわからないものが飛び出す。

公共交通機関の利用が環境にやさしいと言いながら,高速道路を安くして,そのために大渋滞。ふつうにものを考える人だったら,明らかにおかしいと思うはず。いや,多くの人はそう思っているのだが,目の前のニンジンを無視できる人が少ないだけなのだろう。このような虚構にどっぷりつかっていると,災いよけの壺だろうが財布だろうが,健康のための寄付だろうが,何だってありだ。

だまされる隙がなくては国が治まらない。だまされる隙があれば,それを使う商売が生まれる。そんな流れでいまがあるのかと穿った見方をしたくなる。

仕事を中断させられたあげくに,最も嫌っている「悪徳商法」だったため,やや苛立ってしまいことばが過ぎたかも。