「欲ばりすぎるニッポンの教育」

欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)

欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)

やればいいことであっても,時間は限られる。新しいことを加えれば,いままでの何かを減らさなくてはならない。少しでもよい教育をと,次々に強力と思われるものに飛びついていく。それがほんとうに子どものためになっているのか。
栄養価の高いものを,次々と口に入れることが健康につながるわけではない。サプリメントで必要な成分をとりさえすれば,バランスが維持できるとは思えない。教育においても,同じなのではないか。あれこれと欲ばりすぎるのではなく,一つずつその意味を考え,それらの関わりを考慮して,これからの教育を議論しなくてはならない。

以下は,この本を読んで印象に残ったことの記録。内容は本のままだが,表現はわたしなりのものにしてある。

かつては,あまり選択肢がなく,共通のゴールに向かって競争をしていた。このような選抜の時代には,選抜からはずれる人たちにも目がいき,その対策もなされた。
しかし,多様な選択が可能になり,その選択が自己責任となったいま,すべての責任は本人に帰せられる。チャンスが多いように思われるが,それらにチャレンジできる家庭は限られる。他には選択ができず,ある選択をしても,それは自分で選んだことになり,それさえも自己責任となる。選択肢が増えて,格差も広がるのではないか。

ピアノや水泳などを習わせても,早い段階でそれらのプロになることは断念する。しかし,勉強は,そこそこできればいつまでも挽回の可能性があるため,どんどんと欲ばってしまう。

自分で選択した道を進んでいると信じていると,その道しか見えない。かつては受験勉強は受験のためのものであり,もっと広い世界があることを知っていた。いまは受験勉強が勉強のすべてになっている。いまの方こそ,考えない勉強になっているのではないか。

高校の進学率がもっと低いなら,青少年が起こしているさまざまな非行は,学校の問題ではなく,社会問題となる。現在,青少年の非行は教育の問題になる。学校という場が,それらを引き受けているということを再認識する必要がある。学びたい人だけが学ぶ学校なら,運営ももっと楽であり,学習に特化できる。

将来は予測不可能なことが多いからこそ,長い歴史の中から選りすぐった知識を教育する。世界中でカリキュラムの差がそれほどないのもそのためである。しかし近年日本では,近視眼的な視点で役に立つか立たないかの議論をして,教育内容を変えていこうとしている。

相対評価によるプレッシャーをなくすために絶対評価を導入したとすれば,それは本来の絶対評価のすがたではない。日本の絶対評価には,共通の基準がないからプレッシャーもないだけだ。共通の基準をもった絶対評価にはプレッシャーがある。たとえば,高校入学に必要な絶対的な基準を設けたとすれば,それはプレッシャーになる。

絶対的な基準は,生徒には見えなくてもよいが,教師はしっかりとつかんでいる必要がある。生徒の主体的な課題だけでは,評価することはできない。

以前の企業では,企業内での人材育成にも力を注いでいた。受験勉強も大学の教育も,会社に入ってからはあまり役には立たない前提だった。だから高学歴の学生を採用してから,しっかりと時間をかけ,仕事を通して教育をする。このようなしくみが,学歴社会を生み出していた。
しかし,現在では,企業は即戦力を求めている。そのため,自ら学び考える自立型の人材を求めるようになった。企業は人を育てないので,学歴だけではあてにならない。このような社会を,「学習資本主義社会」と呼ぶ。