虫を殺す

先日,玄関を出たところにクモがいた。わたしが殺そうとしたら,女房はやめてという。女房の制止を無視して,わたしはそのクモを殺した。
虫を殺すことには余り抵抗はない。特に,相手がハエやカ,ゴキブリなら躊躇はない。カは刺されると不快だ。またうっとうしい。ハエやゴキブリは何となく不潔で不快だ。クモはやや異なる。理屈でない恐怖感がわたしにはある。子どものころから,クモは苦手だ。
このような感覚には個人差があろう。ヘビがどうしても苦手な人もいれば,イモムシが気持ち悪くてたまらないと感じる人もいる。どういう理由でそのように感じるのかわからないが,かつては生き残るために必要だったのかもしれない。

虫を殺すことだって,実際には気分のよいことではない。では,虫を殺すように人を殺せるのだろうか。なぜ,虫は殺せても,人は殺せないのだろうか。人までいかないまでも,ほ乳類ならどうなのか。たとえば,イヌやネコは。
虫から人にいたるまで,生命を絶つという行為にかかわる感覚は,わたしにとって,連続的なものなのか,不連続な点が存在するのか。

子どものころ,田にはカエルが無数にいた。カエルは生き物であると同時に,わたしにとっては遊び道具でもあった。アメリカザリガニも,偶然捕まえたカナヘビやドジョウも,わたしたち子どもの餌食になった。
モンシロチョウを捕まえ,羽をちぎってクモの巣に投げ入れることもした。すぐにクモが現れて,モンシロチョウのまわりをぐるぐる回っている間に,チョウの動きは鈍くなる。これもわたしの子どものころの遊びであった。
これらの行為は,一人ではなく,何人かで行う。誰か一人がやり出すと,皆も同調する。最初はながめているだけのものも,何日かたったのちには,いっしょにやっている。
死んでいく姿を見ながら,何と残酷なのかと感じることもあった。罪悪感を感じ,土に埋めて墓をつくることもあった。でも,しばらくするとまた殺戮をはじめる。

殺してはいけないから殺さないのか。生命を絶つことの何とも言えぬ感覚。いままで生きていたものが死を迎える,それも自分の行為で。その経験が,殺さないにつながるのか,殺すに通じるのか。

わたしが虫を殺すときに,一瞬のためらいがあるのは,同じ生きているものであると思うから。人に対しては,それが強烈であり,自分のこととして感じられるから,殺さないのは自明になる。でも,この感覚がなくなったら,もしくは感じられない状況になったら。そう考えると恐ろしくなる。

きょうは何だか変な方向に話が進んだ。疲れたところに,アルコールが入ったからなのか。