「分かりやすさ」の罠

もっと気楽に読める本と思って買ったら,そうではなかった。2つの点で,予想外であった。1つは,哲学的な内容であったこと。もう1つは,著者が批判されたこと,批判されるであろうことに対して,ややくどいほどに繰り返すこと。

さまざまなところで二項対立的な物言いがあり,それに対する批判を見聞きし,わたしも気になっていた。ブッシュ大統領の「われわれのなかまか,テロリストのなかまか」,小泉首相の「改革に賛成か,反対か」と二者択一を迫るのには違和感を憶える。 また,わかりやすさのがいいと思っていた。でも,最近のわかりやすさは,本質を見据えるのを避け,表面的なものが多いような点にも疑問を感じている。

そのようなときにこの本の発売を知り,あまり内容を確認しないで買ってしまった。

でも,それがよかったのかもしれない。単純な二項対立に対する,新たな二項対立で落ち着きそうだったわたしの思考に対して,多少なりとも刺激になったと思う。ステレオタイプな表現を批判しながら,対局のステレオタイプになっていなかったか。

二項対立的なわかりやすさは,わたしたちには大変心地よいようだ。どちらかを選択して,そのなかまになれば安心していられるし,あまり考えなくても,自分のなかまを守ればよい。そのため,二項対立に対して,二項対立的に批判するようになる。また,その方が受け入れやすい。

二項対立では,相手に与するか,自分たちのなかまかという選択になる。したがって,相手を否定することは,すなわち自分たちを肯定することになる。他には考えることはなくなる。

「遂行矛盾」という哲学のことばあるという。たとえば,大きな声を出している人に対して,大きな声で「ここは大声を出すところではないぞ!」と言ってしまったり,「あの人のように,人のいないところで悪口を言うような人は,人格的になっていない」とその人がいないところで言う。これらは,言っていること自体に矛盾がある。このようなことを言うらしい。

二項対立に対して,二項対立で応酬しているのは,まさに「遂行矛盾」であると著者は指摘する。

つぼみののちに現れる花は,つぼみを否定しているのか。さらに,果実は花を否定しているのか。ヘーゲルは,このように説明して,二項対立の「止揚」をした。この話は興味深い。なお,「止揚」には,捨て,高め,保存するという意味が含まれるらしい。まさにヘーゲルの哲学思想で,以前の考えがより高次の新しい考えに含まれるという概念だ。二項対立そのものも,完全に否定し消滅させるのではなく,止揚というところが哲学的なのか。

ここから先にも,興味深い記述を断片的に記憶している。ただ,わたしの頭の中で整理できていないため,これ以上書いても意味がなさそうに思う。哲学的な考え方の流れというものを,もう少し整理して理解していかないと,自分にとって都合のよい事例を,矮小化して書き留めることになりそうだ(いつだってそうなのかもしれないが)。

最後に,「パブロフの犬のように」とか「脊髄反射的に」という表現が何度も出てくるが,このあたりの記述は,その背後に何があるのかわからないものにとっては,ただ不快に感じるだけであったように思う。著者にすれば,これも計算されたことだったのかもしれないが。