配偶者選択のようなもの

配偶者選択によって,クジャクのはねなど,とんでもないところまで進んでいってしまう。一見,生存に不利だと思われる形質も,実は配偶者が選んでいた形質だったりする。配偶者を得なければ子孫は残せない。より多く子孫を残すためには,配偶者が選ぶ形質をもたねばならぬ。そして,その形質が広がり,発展していく。
しかし,それにも限度があるはず。そのうちに環境の変化に弱くなり,ある変化をきっかけに,急に絶滅する危機もあろう。

いまの進学校の大学入試偏重は,配偶者選択のようなものでは? このまま大学入試にシフトした教育を続けていたら,どうなってしまうのだろうか。大学だって困っているのだろうに。
人は知能を使って,どんどんと対応を考えていく。磨きをかけて競争を繰り返していく。だんだんと目的を見失って,ただ勝つために,ある点だけに磨きをかけていく。そして気付いたときには,とんでもなくグロテスクな状況になっている。
複雑に絡み合ったシステムに組み込まれ,個々の力ではどうにもならない渦がまく。何のために学ぶのか。そんなことはもうどうでもよくなった。だから,何のために学ぶのかという問いも,その答えに悩むすがたもかすんでしまった。

他にもそのようなことは多いように思う。経済至上主義も,社会があらぬ方向に進んでいく危険をはらんでいるのではないかと心配になる。売れる物がよい商品というのはほんとうだろうか。視聴率が高ければよい番組なのか。ものを開発する人の気概やモラルは,いまも健在だと言い切れるのだろうか。