人物で語る物理学入門(上・下)

人物で語る物理入門 (上) (岩波新書 新赤版 (980))

人物で語る物理入門 (上) (岩波新書 新赤版 (980))

人物で語る物理入門〈下〉 (岩波新書)

人物で語る物理入門〈下〉 (岩波新書)

科学史というものにはあまり興味がなかった。しかし,年齢とともに,こういうものにも抵抗がなくなり,かえって楽しみになってきているようだ。
しばらく前のNHK人間講座の内容を,加筆してまとめたものという。その番組もときどき見ていたが,この本も改めて十分に楽しめた。いままで思っていたイメージ通りの科学者といれば,はじめて知ることもいろいろあった。
アインシュタインについては,さまざまなところで読み聞きしているので,それほど目新しいものはなかった。また,湯川秀樹朝永振一郎についても,本人の書いた本や,その他の本をいろいろ読んでいたので,それなりであった。
でも,他の科学者については,新鮮に感じることも多い。おもしろいと感じたことなど,記憶に残っていることを以下にまとめる。わたしなりに書き直してあるので,もとの意図と異なった読み方をしているかもしれない。勝手な解釈と笑い飛ばして欲しい。

光が波動か粒子か。粒子説の支持者たちは,フランス科学アカデミーに働きかけて,粒子説で説明できない回折現象を懸賞問題にした。それに対して,フランスのフレネルは,波動説で回折現象を説明した論文を提出。粒子説でうまく説明したいという当初の意図とは違ったが,その論文に賞が与えられた。科学的に評価できるものに賞を与える姿勢はすばらしい。

マクスウェルの電磁気理論とそれから導き出される電磁波。その電磁波が実際に発見され,マクスウェルの理論は多くの科学者に研究されるようになる。マクスウェルの理論に熱中する人たちのことをよぶ「マクスウェリアン」ということばができたほどだという。わたしも学生時代に電磁気学を学んだ。マクスウェルの方程式は美しく,魅力的に感じた。

エントロピーという概念は,高校まででは学習しない。しかし,ほんとうは重要な考え方だ。エネルギーは保存されるわけだから,エネルギーという概念だけでは,エネルギー危機など起こらない。実際には,エントロピーが増大し,利用可能なエネルギーが減ってしまうことが問題なのだ。「エネルギー危機」ではなく「エントロピー危機」だ。これをきちんと理解できる教育が必要なのかもしれない。

19世紀の終わりごろ,原子論は多く受け入れられていた。しかし,ボルツマンのいるウィーンでは,マッハをはじめとするエネルギー論者が多数を占めていた。原子論を主張するボルツマンは孤軍奮闘し,かなり消耗していた。マッハ・ボルツマン論争は,科学の方法論にまでおよぶ。ボルツマンは,この論争のために,哲学についても研究しようとするが,精神的な負担は増すばかりだった。
ボルツマンの講義は,受講者を満足させるすばらしいものだったという。完璧主義のボルツマンは,講義を行う上でも,最高のものをめざしていたからだろう。ウィーンでの論争は,ボルツマンをかなり消耗させた。
ウィーンの外では,ボルツマンの考えは広く認められるようになってきた。しかし,ボルツマンは精神的疲労により,休暇をとって家族とイタリアに静養にでかけ,体力が回復したかに思えたころ,静養先で自ら命を絶った。60歳だったという。
ボルツマン没後すぐに,原子の実在が証明されると,ウィーンのエネルギー論者たちの多くは原子論を受け入れた。エネルギー論をとなえていたオスワルトは,ただちに原子論のテキストを書いたほどという。でも,マッハは最後まで原子論を受け入れなかった。間違いを認め,正しいと気付いたことを直ちに受け入れることをよいと考えるか,簡単に自説を曲げないのをよいと考えるか。

アインシュタインノーベル賞受賞が遅れた理由。1つはドイツの物理学者フィリップ・レナルトが選考委員に働きかけてじゃまをしたため。彼は陰極線の研究でノーベル賞を受賞しているが,偏狭な反ユダヤ主義者であった。また,『アインシュタインに反対する100人の著者たち』という本がナチスによって出版されたが,アインシュタインは,「わたしの理論の間違いを指摘するなら,一人で十分なのに」と言ったらしい。アインシュタインらしい発言だ。
なお,この本には書かれていないことだが,「マイナスイオン」商品(もちろんその効果は怪しい)のよりどころである「レナード効果」の“レナード”はレナルトのことである。
2つ目の理由は,相対論はむずかしすぎて,選考委員にも判断がつかなかったから。もしあとで相対論が間違いだと言うことになると,委員会の失態になると心配したらしい。しかし,アインシュタインを熱心におした科学者もいる。マルセル・ブリュアンは,受賞者リストにアインシュタインがのっていないことが将来恥になると主張した。結局,選考委員は,相対論ではなく光電効果に対して,ノーベル賞を与えた。

1903年のノーベル物理学賞は,「放射能現象に関する研究」に対して,アンリ・ベクレルマリー・キュリーピエール・キュリーに与えられた。キュリー夫妻の受賞で,ノーベル賞の認知度が高まった。受賞後の二人は,マスコミに追われたという。マスコミの力は恐ろしい。

マリー・キュリーは,物理学者のポール・ランジュバンとの不倫をマスコミに取り上げられる。そのため,受賞が決まっていた2度目のノーベル賞を辞退するように言われるが,「科学的業績の評価が個人生活の中傷や誹謗の影響を受けるという考えには承伏いたしかねます」と突っぱねる。キュリーは,マスコミがねらいやすい科学者だったのだろうか。

20世紀が始まったばかりのころは,ヨーロッパの研究社会は男が中心だった。マイトナーは大工の作業場でのみ研究を許され,そこで実績を上げる。しかし,圧倒的な研究成果によって,女性の能力を認めていなかったプランクが,マイトナーを助手に雇う。さらに,研究員に昇格するのに,かつて大工の作業場に追いやったフィッシャーが影で尽力する。すばらしい成果を素直に認めるところは科学者らしい。

ナチス独裁により研究を離れ,ノーベル賞という栄誉を失い,共同研究していたハーンにも裏切られたが,マイトナーは名誉回復のための行動は起こさなかった。死の直前に,エンリコ・フェルミ賞を共同受賞し,はじめて正しい評価を受ける。マイトナーの死後,原子番号109番の元素にマイトネリウムという名が付く。女性として単独ではじめて元素名に名を残すことになる。

1937年の春に来日したボーアは,湯川の中間子論について,「新しい素粒子を導入するとは,勇敢なことだ」と言ったらしい。しかし,湯川の「勇敢さ」は,その後,新しい物理学を切り開くことになる。

トランジスタの発明でノーベル賞を受賞したバーディーンは,授賞式でスウェーデン国王に子どもを連れてこなかったことを叱られる。そのとき,バーディーンは,「この次には必ず子どもを連れてきます」と約束する。そして,ほんとうに超伝導の理論で2度目の受賞をして,子どもだけでなく,孫までも授賞式に連れて行くことになる。