ご臨終メディア

テレビ中継で,逮捕された被疑者にモザイクがかかる。でも,それは顔ではなく手錠や腰ひも。なぜなんだろうか。疑問に思う人も多いのではないか。被疑者の人権を守るため? それなら顔を隠すべきだ。なぜなら,いまだ被疑者であって,真犯人とは限らないのだから。

このようなことが日常的に行われているマスコミとは。

一般の人々の代表として,権力に立ち向かうべきジャーナリストが,強いものにしたがい,弱いものを攻撃する。視聴率を簡単に稼げるものに飛びつく。数値が大切であり,市場原理に流される。自ら調査して視聴者のためになるものを追求する姿勢はほとんどない。

このようなメディアに存在価値があるのだろうか。

そもそもメディアとは,他人の不幸を食いものにするところがある。だから,後ろめたさを感じることが必要だと言う。しかし現在では,民意ということばをかざして傲慢になり,視聴率獲得に必死になっている。「調査するジャーナリズム(investigative journalism)」ということばができるほど,ジャーナリストは調査をしなくなった。

ただ危険を煽って関心をもたせ,その流れにそう情報を次々に出す。期待される情報を流すことで視聴率を確保する。このような流れが,オウムの一連の報道だと言う。白装束のパナウェーブという団体についても同様に考えられる。

「われわれ」と「かれら」とを区別することで,「かれら」に対して抵抗なく攻撃ができると。かつて,ナチスユダヤ人に対して行ったように,また関東大震災のときに,日本人が朝鮮人に対して行ったように,「かれら」に対しては,躊躇なく徹底的に攻撃する。

ジャーナリズムは機能不全に陥っている。メディアの報道を鵜呑みにせず,自分で考えることを一人ひとりが実行しなければ,メディアの復活はありえないのではないか。