母のその後

先週の日曜日に転倒して胸骨を圧迫骨折した女房の母。その日のことは1月6日に書いた。

8日はかかりつけの近所の医師が往診に来てくれたので,女房が状況を説明して診察を受けた。痛み止めは,飲み薬ではなく貼り薬に変更。また,いろいろ出ていた薬も種類をかなり減らした。

実は,これまでの主治医は,往診に来てくれた医師(現在の院長)の母親で,さまざまな薬を出してくれていた。それを見直し,不要な薬をカット。母は不安そうだったが,私はその方がよいと思った。

火曜日には電動ベッドが搬入された。女房が手配したレンタル。介護保険を利用して,安価に借りられるようだ。さらに,介護認定も見直す必要が出てきた。その日程も決まったようだ。

骨折した日から,女房は毎晩母の家に泊まっている。昼間に二,三度戻ってきて,家事などをし,その合間に母の介護。なかなか大変な日々だ。月に10日ほど行っていたバイトも,今週の予定は急遽変更して休みに。語りや読み聞かせのボランティア,勉強会もほとんど欠席。

いつかはと思っていた母の介護が突然やってきた。準備不足のまま突入している。

私の食事の支度は女房がしてくれるので,夜の遅い私にとって,夕食はいままでと大差がない。でも,朝食は自分で温めたりしていると,それなりに時間もかかる。何より,一人でもくもくと食べるのは,何となくさびしい。

母は,からだをどう動かすとひどい痛みになるかが,多少わかってきたようで,それを避ける形で,かろうじて生活をしている。でも,着替えだけで1時間くらいはかかるらしい。ひとり暮らしだったので,いままでがどのような生活だったのかはよくわからない。

でも,今回,女房がいっしょに生活をして,いろいろなことがわかってきた。

相当古い食品が冷蔵庫に残っていたり,洗濯機の洗浄が必要だったり,衣類の整理が不十分だったり,…。一人ではいろいろできなかったことが,そのままになっていたのだろう。特に,食品の古いものは,間違って食べてしまっては大変だ。

それに,物忘れがかなりひどいようだ。ついさっき話したことがもうわからなくなってしまうらしい。古いことははっきり覚えているし,ふつうに会話ができていたので,いままでは気付かなかったが,老化が急激に進んでいるように感じた。

痛み止めの貼り薬も,通常の湿布と間違えて何度もはがしてしまう。痛み止めの薬だよと説明すると,そうだったと言うことになるらしいのだが,それを何回も繰り返しているようだ。

座敷の雨戸の開閉,庭の電灯のオンオフなど,いままでやっていたことは,女房が代わってやることにした。そのように話をしているのだが,女房に他の用があって少し遅れると,母が痛みをこらえながらこれらをやってしまう。運動が必要だからやっているのではなく,日課のようにはじめてしまうのではないか。

これらの日課は,さまざまな段差を乗り越えなくてはならず,非常に危険なもの。ふだん使っている部屋は電動シャッターにしたのだが,座敷もそうしておくべきだった。庭の電灯のオンオフくらいは,自動でできるようにしなくてはならない。

でも,そうしたところで,母はいままで通りに雨戸を閉めようとしたり,庭に出て段差を乗り越え,電灯のスイッチを押しに以降とするのではないか。話をしても,きちんと理解しているのかどうか,記憶しているのかどうかが,少しあやしくなってきている。

近所に住んでいながら,いままで気付かなかったのがいけなかった。

私の父のときも同じだった。私の父も一人暮らしをしていた。どんどん頑固になってわけのわからないことを言っても,以前から好き勝手なことを言っていた人だったので,ちょっと惚けてきたくらいにしか思っていなかった。近所の医師に指摘されてはじめて認知症が進行していることに気付きいっしょに病院へ。今日が何日であるかもトンチンカンなようすに,私は驚いた。

認知症の検査入院だったが,小腸にがんが見つかった。閉塞していた腸を広げるために,肛門から入れてあったバルーンを,夜中に勝手に引き抜いて腸が破裂し緊急手術。敗血症になって一時危なかったが何とか復活。それから寝たきりになり,1年半後にこの世を去った。

私の父のようなことを繰り返してはいけない。母については,骨折を機会にようすを見て,まずは状況を把握することからはじめているところ。これからしばらくはどのように介護していくかを考えていかなくてはならない。