科学との正しい付き合い方

2010年4月17日購入

科学教育にかかわる人のほとんどは,科学が好きな人だと思う。でも,好きだから見えなくなってしまうこともある。それらを見逃さないために,科学教育にかかわるすべての人に,この本を読んで欲しいと思った。

わたしは,小学生のときの担任には深く感謝している。大変熱心な方で,病弱なわたしをよくフォローもしてくれた。でも,理科は専門ではないようで,「?」と思うこともあった。中学でも,残念ながら,理科の教師のよい思い出がない。言うことを聞かないと,すぐに声を荒げたり手を上げる教師もいた。わたしは科学に対する「信仰」が強かったので,「科学教の信者」に成長していったが,人によっては「ブレーキ」になったと思える。

娘は,高校で理科が苦手になった。別に高校の理科の先生が悪かったわけではない。中学のころは,先生が言う通りのことを覚えていけば,それなりの優等生になれた。でも,高校では違っていた。中学の教師は,生徒に優しい先生だったのかも知れないが,「科学的思考法」を軽視し,「科学的知識」に偏った指導をしていた。効果は遅れて現れるが,これもまた「ブレーキ」と言えるのではないか。

ただ,きちんと教えようと,理屈をこね過ぎても「ブレーキ」になるだろう。そのように考えると,教師もなかなか大変だ。

“世界一でなくてはいけないのか”という蓮舫議員のことばに,「信者」であるわたしは熱くなった。何てことを言うんだ。そんなことは当たり前だ,と思った。でも,しばらくして,熱が冷めてくると,「異端」の魔が差してきた。

そして,ノーベル賞科学者の記者会見をテレビで見て驚いた。権威で押し切ろうとする姿勢は,科学的な説明になっていない。わたしが思い描く科学ではなく,実在する科学の一端を見る思いがした。わたしはいまでも「科学教の信者」ではあるが,この件に対する思いは,著者とかなり近い印象を持っていた。

実は,「科学教」に対する「異端」の心は,いわゆる文系の人たちとのやりとりで生まれてきた。特に,物理がさっぱりわからなかったという妻とは,意見が合わないことが多い。でも,よく考えてみると,自分の危うさが見えてくることもある。「疑う心」の大切さを知らされた。妻は読み聞かせのボランティアをしている。わたしが「水からの伝言」を知っているかと聞いたら,“読み聞かせの候補にあがったことがあったが,ヘンだと思ってやめた”と。文系,理系の別ではなく,これを“ヘン”と言える感覚が重要だ。

このように,わたしの経験を重ねてみると,この本に書かれていることの多くは,わたしの思いと一致していることがわかる。そのためか,心地よく一気に読むことができた。

ただ,わたしの思いが著者の考えとは異なる点もある。たとえば,次のようなこと。

わたしは「科学技術」ということばを好まない。「科学」と「生活」を結びつけようとすると,「技術」が必要になる。切り離せなくなってきていて悩ましいが,わたしは,文化としての「科学」が定着して欲しいと願っている。「技術」は「産業」とのつながりが強く,「科学」がそこに引き込まれ過ぎると,文化としての扱いが希薄になるに思えてしまう。

また,わたしは,酒の席でも血液型と性格の関係は否定する。科学で認められていないからではなく,根拠のないことで差別が生まれる危険があるからだ。「水からの伝言」と同様に問題だと思っている。このことを妻に話したら,“その場の空気を読みなさい”と言われた。でも,その場の空気よりも大事なことがあると思っている。

なお,異なる考えを知ることが,自分自身を疑ってみる機会になる。この本はきちんと書かれているからこそ,しっかりと考えることができるのだと思う。読みやすい本でありながら,考えさせられて頭が整理されたと感じた。