ラクして成果が上がる理系的仕事術

ラクして成果が上がる理系的仕事術 (PHP新書)

ラクして成果が上がる理系的仕事術 (PHP新書)

ここに書かれていることは,多くの人がすでに思いついていることではないか。ただ,それらが実行できないから悩むのである。この著者は,そのわかりきったことを,得意気にまとめ上げる。しかも,何の根拠もなく「理系的」を乱発する。

理系人間だっていろいろなタイプがある。広く見渡すのが得意な人もいれば,狭いが深い思考で成功する人もいる。どちらかというと,理系は専門が細分化しすぎ,非常に偏狭な見方しかできなくなっていることの方が心配されている。同じ内容を,「文系的」といって文系出身者がまとめても,ほとんど違和感なく読めるのではないか。

タイトルは重要なのだろう。内容的にも,何らかのしかけがなくては,あふれる情報に埋もれてしまう。だから「理系的」とつけることで,インパクトを出そうとしていることはわかる。しかし,それを知的アウトプットとよんでいいのだろうか。

また,そのときどきで都合のよいように書いている。深く考察しないで,思いつくまま形にしている。この著者の知的アウトプットとは,この程度のものなのだろう。整理する努力は認めるが,実際には特に得るものはない。

あれこれと自分の方法を推奨しながら,最後には自分流を見つけよと。いろいろな流儀を紹介した上で,それらから自分流をつくり上げるよう勧めるならよいと思う。しかし,この著者の大胆な方法を押しつけられただけでは,何ともしようがないのではないか。

そもそも意味不明な文章が多い。たとえば,文章を三部に構成することを勧めるところで,

「三部に分けるというのは,ちょうどカメラの三脚を立てるのと似ている。足場は四点では安定しない。どれか一本の足が浮いてしまうからだ。それに対して三本足の場合には,そのうちの一本がすこし長くても短くても,安定していられる。」(P.194〜195)

とある。確かに,三脚はそうである。でも,文章の構成を三部に分けることとどのようなつながりがあるというのだろうか。ただ「似ている」と言い切るだけで,何もその根拠を示していない。このように,この本には論理的な展開が見られないことが多い。

「たとえば,拙著『火山はすごい』(PHP新書)の富士山の章では,私は最初「崩壊する富士山」という見出しをつけたのだが,編集者は「美しさも期間限定?」という魅力的な見出しに変えてきた。これには私も脱帽した」(P.226

この程度で脱帽してしまう人が,いったい何を語るのか。驚いてしまう。『火山はすごい』は読みたいと思って買ってあるが,何だか興味が失せてしまった。

ルーズリーフは片面だけを使うらしい。複数枚になった場合は,ホチキスでとめる。そして,テーマ別のクリアフォルダにはさむという。決してバインダーにはとじない。それならなぜルーズリーフを使うのだろうか。ふつうの用紙でよいではないか。このような疑問がわいてくるのは,わたしだけだろうか。

ほんとうの科学者だったら,このような単なるウケねらいではなく,論理的にしっかりとした内容にまとめて欲しい。書名はウケるようなしかけがあっても仕方がない。でも,中身までこれでは失望だ。理系・文系という根拠の希薄な設定で,ここまで書くとは。これ以上まじめに批評しても,意味のないことかもしれない。