教えることの復権

教えることの復権 (ちくま新書)

教えることの復権 (ちくま新書)

教師は教科指導をしているのだろうか。そんな疑問をもつことがある。最近の先生は,生活指導や部活指導,さらに校務に追われている。非常に忙しいことはよくわかる。でも,ほんらいもっとも期待される教科の指導に,もっと十分な時間を割いてもよいのではないか。そんな漠然とした思いがあった。もちろん,すべての先生がそうだというわけではない。私の思い違いであるかもしれない。

私は国語が苦手である。小説の登場人物の心情を答えることなどは,特に苦手であった。読書感想文や作文など,どこからはじめて,どのように書いたらよいか,いつも悩むばかりだ。原稿用紙半分で,息切れがする。学校の授業では,このような状況から脱出する方法は得られなかった。そればかりか,私が息切れしていることにも気づいていないかのうように,まったく見当違いの話が続く。

国語の授業は,事例の集合でしかない。このようなことが述べられているとか,このときの主人公の心情はこうであるとか,ある程度の説明とともに,多くの事例が紹介される。それらの事例から,論理を組み立てられる生徒はよい。また,同じように感じられる生徒も,それなりに学習効果があるのだろう。

でも,私には納得がいかない。もっと“きちんとした”説明や方法を示して欲しい。感じさせるのではなく,納得させて欲しい。私のようなものわかりの悪いものを,もう少しましなところへ導いて欲しかった。このような導きが“教えること”であると,私は思う。

この本の序章で,著者の一人が,国語の授業にはありがたみがないと言っている。数学などは,授業で学習したことで,いままでできなかったことが確実にできるようになる。そのように実感できた。しかし,国語の授業にはそれがないと言う。まったく同感である。

国語では,ある題材でわかったことが,他の題材ではなかなか生かすことができない。もちろん,それがやりづらい教科であるかもしれない。でも,それがやれないとも思えない。しっかりと組み立てて,やらなくてはならないのではないか。何をどのように習得させるかをきちんと考え,しっかりと組み立てて展開し,教えることが必要だ。

また,それが一律であってもいけない。反応を確認しながら,その方法はさまざまに分岐しながらも,目的のものを習得させる。それが教えることなのではないか。

このような指導がないまま,計算練習や漢字練習のような短絡的な反復練習ばかりがはやる。このような学習は,やっただけの成果はある。また,そこから,自分自身で組み立てて,十分な学習効果を得る子どももいるだろう。しかし,これは教えることではない。国語の授業で,単に事例を繰り返していることと同じである。

子どもがどのように組み立てるかを設計し,そこに向かって指導する。さまざまな教材を使い,いろいろなことを経験させて,目的のものを習得させる。これが教えることなのだと私は考える。

最後に
この本を買うのを,しばらく躊躇していた。いままで考えていたことを,確認するだけの読書より,それを書き表すことの方が大切だと感じているからだ。しかし,結局買ってしまい,読み終えたときには十分満足していた。でも,自分の考えは,著者たちの考えと区別がつかなくなり,上記の文章も,結局はだれの考えかわからなくなった。これでよいのだろうか。