「異色と意外の科学者列伝」

異色と意外の科学者列伝 (岩波科学ライブラリー)

異色と意外の科学者列伝 (岩波科学ライブラリー)

それぞれの科学者が生きた時代,その社会や制度などの背景に焦点を当てた解説になっている。
たとえば,コペルニクスは伯父である司教の秘書をしたりしいていたこと,メビウスの帯で有名なメビウス天文台長であったことなど,いまの科学者のイメージとは異なる。また,イギリスの大学やドイツの大学の制度や考え方の違い,そして,それらがどのように変わっていくかという点も興味深い。
このような視点から,原理や現象,単位などでよく聞く科学者などを解説する。科学者の人間性と言うよりは,その時代が浮き彫りにされる。科学者のエピソードをまとめた科学者列伝とは,少し趣が異なり,新鮮に感じる。

以下には,印象に残ったことがらを記録しておく。

わたしも,検流計のことをガルバノメーターと呼んでいた。丸の中にGと書いて図解することも知っている。それが「生物電気」のガルヴァーニが語源であることに,いままで気付いていなかった。
ガルヴァーニの発見からヒントを得て,電池を発明したヴォルタの時代は,静電気から電流への転換期であった。19世紀の文献では,電流のことをガルヴァーニ流とよく書かれていたらしい。オームもガルヴァーニ回路と言い,ケルヴィンの電流計もガルヴァノメトリであったという。

電流と電圧を測定して実験結果をプロットすると,それが比例することがわかる。しかし,オームの法則はこのような実験結果をまとめたものではない。フーリエの熱伝導理論をもとにしたものであった。このような誤解があるのは,中学校の教科書のイメージが強すぎる結果なのだろう。
オームの理論は,フランスの数理物理の手法であり,当時のドイツでは,なかなか認めてもらえなかったという。オームが不遇で,晩年にやっと大学教授になるが,それから亡くなるまでの期間は短かった,というエピソードはよく聞く。なかなか認められなかった理由の1つがここにあったわけである。

いまの大学ではふつうに行われているセミナーは,ドイツの大学の言語学に始まり,続いて数学で行われたという。それまでは一部の天才が,自然に頭角を現すのを待っていただけだった。それが,研究者を養成して,研究者を多く生み出すしくみになった。

数学のような純粋な学問は,思考を訓練でき,人格形成に役立つと考えた。自立した人間の育成のためにも,純粋な学問を必要とした。このようなプロシアの考え方は,ドイツ数学とドイツの教育制度の成功によって,世界に広まった。

宇宙物理学者ホーキングは,ケンブリッジのルーカス教授職。古くはニュートンもこの教授。そして,ルーカス教授職は数学者のポストであったという。そこには数学トライパスという制度があった。19世紀では,ラテン語などの古典とともに,数学の試験は,道徳哲学の一部であったという。

従来の大学では,弁論・討論が中心であった。これらの能力がエリートには求められた。数学も当初は口頭試問が中心であったが,より高度になるにつれて,「紙とペン」に移行していった。大学教育そのものも,それによって変わっていく。

「紙とペン」の試験による競争は,何でも計算することによって解決するような意識をつくっていたのかもしれない。ケルヴィンは,この競争心やゲーム感覚の人であったという。古典物理学を乗り越えた科学者たちは,このような世界の外にいたものたちであった。ラザフォードはニュージーランド出身,ディラックは電気工学出身で,数学トライパスの洗礼を受けていない。
このような話は,現代の教育制度にも通じるものがあるように思う。受験勉強は,一部の能力を伸ばすことはできても,勉強のすべてではないという意識がうすくなってはいないか。受験にだけパスすればよいと言う考え方が,世界史の未履修問題で浮き彫りにされた。このような勉強を続けた結果がどうなるか,現実を見ながら将来を想像する必要があると思う。

現在の天文学は,実学ではなく夢のある科学というとらえ方であるが,19世紀はそうではなかった。国力を世界に広げるためには,時間と位置を正確に求めることは,重要な問題であったから。そして,国家や軍などの組織とともに,官僚的・軍隊的な組織力を必要とするビッグサイエンスであった。

ラザフォードのノーベル賞受賞理由は,あの有名な原子核の発見ではない。ラザフォードは1908年に化学賞を受賞しているが,原子核の発見は1910年である。この研究の発表前であった。

ケルヴィンは,熱伝導理論を固体地球の冷却に応用し,地球の年齢を1億年以下とした。ダーウィンは「物理学者の自信過剰」と日記に記しているという。エーテル説をより高度にしたのもケルヴィン。ただ,X線と放射線を見て,20世紀に起こるであろう物理革命を示唆していたという。